物語において「主人公が間違え、そしてそれが正される」という構造は確かに一般的な王道ストーリーの一形態です。しかし、すべての小説や創作物がこの型に当てはまるわけではなく、さまざまな異なる物語が存在します。ここでは、いくつかの著名な作品を例に挙げて、この考え方が当てはまるかどうかを考察します。
梶井基次郎『檸檬』のような小説に当てはまるのか?
梶井基次郎の『檸檬』は、確かに「主人公が間違え、それが正される」という形式には当てはまりません。『檸檬』は、主人公が物語を通じて自己を発見することなく、最終的に檸檬を投げ捨てるという行動で終了します。このような作品は、物語の終わりに主人公が成長や変化を遂げることを求める一般的な「物語の構造」とは異なり、むしろ静かな心情の変化を描く作品です。
『檸檬』は、自己認識や象徴的な行動を通じて読者に深い印象を与えますが、「正される」ことなく終わります。この点からも、この小説が持つ独自の形式は、王道の物語構造から外れていると言えるでしょう。
江戸川乱歩『人間椅子』のような作品に当てはまるのか?
江戸川乱歩の『人間椅子』も、主人公が「間違えて正される」という物語構造には当てはまりません。この作品は、むしろサスペンスや恐怖を引き起こすことを目的としており、主人公の行動や心理が「間違い」として描かれるわけではありません。物語は主人公が「間違い」を犯し、それを正すという過程よりも、むしろ異常心理や人間の恐怖を掘り下げることに焦点を当てています。
『人間椅子』における主人公は、極端な行動を取ることで物語を動かしますが、正されることなく物語はその不気味さを強調する形で完結します。したがって、物語が成長や改善を促す「教訓的な要素」を持つことはありません。
ショートショート(特に星新一)のようなジャンルに当てはまるのか?
星新一のショートショート作品は、通常「間違えを正す」という伝統的な物語構造を取ることは少ないです。星新一の作品は、非常に短い時間内で完結し、奇妙で予想外な結末を迎えることが多いです。これらの物語は、しばしばユーモアや皮肉を含みながら、読者に「驚き」を提供することを重視しています。
ショートショートの形式では、主人公が自己成長を遂げたり、過ちを正すというよりも、むしろ衝撃的な結末や予想外の展開が焦点となります。したがって、「間違えを正す」という構造には当てはまらないことが多いです。
まとめ
物語における「主人公が間違え、そしてそれが正される」という構造は、王道ストーリーの一つの形であり、多くの作品で見られる要素ですが、すべての作品に当てはまるわけではありません。梶井基次郎の『檸檬』や江戸川乱歩の『人間椅子』、星新一のショートショートなど、成長や改善を重視しない作品も数多く存在します。これらの作品では、主人公が変化を遂げることなく物語が展開するため、従来の物語構造とは異なる魅力を持っています。
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